梅棹忠夫が紹介する森下正明


大興安嶺探検 − 学生隊で秘境を縦断

 今西流の教育法はまことにきびしいものだった。野外での観察や分析、理論家の過程だけでなく、報告書作成にいたるまで指導は一貫してつづけられた。
しかし今西さんが命令したり、強制したりすることは無く、徹底的に学生たちの自発性にまつというやりかたである。そのために、はてしない議論がつづくのである。
わたしはポナペ島の報告書で「紀行」の執筆を担当したのだが、提出した原稿は徹底的になおされてかえってきた。これはわたしにとって、まことにありがたい文章修行となった。
こうして学生たちの手によって『ポナペ島−生態学的研究』が完成した。
1924年、大学の2回生のときにはおおきな仕事を計画していた。それは中国北東部に横たわる巨大な山塊、北部大興安嶺の探検である。
この地域は大森林でおおわれていて、少数の狩猟民族以外住民はいない。大部分が地図もない白色地帯だった。この中心部を数ヵ月かけて横断しようというのだ。
この計画には周到な準備が必要だった。装備や食料の輸送には現地でロシア人とウマをやといいれることにした。地図がないところをゆくのは、船と同じように天測による推測航法を採用することにした。食料は感想野菜などのほかは現地補給だった。そこには野生の獣や魚がいるはずだった。
隊長はもちろん今西さんで、副隊長は森下正明氏だった。森下氏はのちに京大理学部の動物生態学の教授となる。あとは全員現役の学生だった。
ベンゼン核からは吉良、川喜多、藤田、伴とわたしがくわわった。さらに立命館大学から1名、高等蚕糸学校から3名、大阪商大から1名くわわった。
5月12日、国境にちかいハイラルの町を出発して行進をはじめた。三河地方のロシア人の入植地で、コサックを8名と馬29頭をやといいれた。道案内としてオロチョン族とタブール族を各1名やとった。
隊員は全員徒歩だった。ガン河という黒竜江の支流を東にさかのぼって、大興安嶺をめざした。春はまだあさく、ときどき雪がふった。5月末には大興安嶺の主稜に達して、北のプラストラヤ川流域にでた。
ここで隊はふたつにわかれた。今西隊長以下15名からなる本体は、ピストラヤ川本流にそってくだる。支隊は川喜多、藤田、土倉九三とわたしの4人にロシア人1名、ウマ3頭という編成だった。この隊は大興安嶺の主脈にそって、白色地帯をまっすぐに北にむかう。
本隊、支隊とは別に、黒竜江岸の漠河から森下副隊長がひきいる漠河隊が南下してきて、森林のなかに前進基地をもうけているはずだった。そこで3隊が合流するという計画だった。
支隊の白色地帯突破はおおきな冒険だったが、これはみごとに成功して、17日目に漠河隊と合流した。そして数日後には本隊とも合した。漠河隊はエヴェンキ族の家族をやといいれたので、基地にはかれらが飼うトナカイの大群がいた。
漠河にでて、黒河まで船で黒竜江をくだった。そして新京経由で日本にかえった。この探検はほとんどが学生の手でおこなわれたという点で、国際的にもまれなケースだったとおもう。その後は空中写真測量が普及して、地球上に白色地帯はなくなったので、この探検行は地理学的探検という意味では、事実上最後のものにちかいであろう。
このときに観察し採集した資料で、わたしは翌年に卒業論文をかいた。黒竜江上流で釣りあげた魚の胃をきりとってホルマリン漬けにしたものをもってかえり、その内容を分析して、魚類社会の構造を解明しようとしたのである。わたしは大学最後の1年をこの仕事にあてた。

1996年1月 日本経済新聞 私の履歴書より

京都大学名誉教授
森下正明 研究記念財団
資料室